しょごブログ

自己啓発/アウトプット

将来やりたいこと

今の時間はおはようなのかな?

時計チラッとみたらちょうど朝の4時や

今回はバレーのことについて語らせてもらうよい

 

 

 

 

おれがバレー始めたのは小学校1年生の時。

両親がスポ少の指導者だったからよく練習にはついてきてたんだけど、あの頃は絶対バレーやらないって思ってたのを今でも覚えてる。

でもいざ小学校入学するや否や、なんでか知らんけど自己紹介させられて、知らん間にバレー始めてた

最初はボールに慣れるためにドッジボールだとか遊びしかやってなくてまあまあ楽しかった覚えはある

けど二年生になってからかな?ちょっとずつバレーをやっていくようになって初めてついたポジションがセッター。小学生の時はボールが飛ばなくてセッターが嫌で嫌で何度もやめようとしたんだよ。

だから大学2年まで続けてたから14年?かな

その中で1、2年だけはスパイカーやってたの。

センス皆無だったけど、それからまあ話飛ばして中2の時の話。当時は笠松ウィングスって言うクラブチームにいて、ヤングバレーっていう全国大会で2部の優勝を果たしたの。でもそれがすごい悔しくって。

ヤング行ったことある子ならわかると思うんだけどあれって初日が一番大事で、そこで1部とか2部とか決まっちゃうの。だから来年こそは絶対に1部にいきたいって思いが強くあって、三年生が引退して笠松ウィングスでキャプテンをおれはやってたの。

あとから話聞くとウィングスは態度の悪さで有名だったとか。それくらいまあまとまりのない奴らの集まりだったわけよ。おれも含めて。

だからそこから距離置くようになって岐阜ジュニアってチームの移籍を考えてたわけ。まあ考えはほぼ決まってたんだけど。

いざ4月になっておれらがメインの年だってなった時におれは一切練習に顔出さなかった。

ユニフォームの返却も親。話しにいくのも親。

おれはキャプテンを放棄して何もかも親まかせ。

今考えるとまあクズとしか言いようがない。

キャプテンなのにチームを裏切って、話もしにいかず、筋も通してない。

でもその頃はヤング出ることしか考えてなくて、ごめんけど申し訳なさ一切なかった。

おれ頑固だからこうって決めたら揺るがなくて。

無駄に話長引くのも嫌だったし説得されるのを断り続けるのも嫌だったんだよね。

それでも今でも関わり続けてくれてるウィングスのみんなには感謝しかない。本当にありがとう。

そんなこんなで岐阜ジュニアに移って、ヤングバレーの岐阜県予選、当時は岐阜県2チーム出れて組み合わせも当日のトーナメント次第なんだよね。

ここでまあ全国の出場権をかけたところでウィングスと岐阜ジュニアが当たっちゃうわけよ笑

結果的にフルセットで勝てたんだけど。

終了後の対戦チームの監督挨拶、おれ下向くことしかできなかったよ。試合終わった後にベンチで泣いてる慎之助や下向いてる大貴の姿を見てそこで初めて少し申し訳なさが出た。

決勝は西濃ジュニアとだったんだけど、まあこれが強い強い。おれらの代は西濃地区がすごい強くて

U-14やヤングであいつらは準優勝してるわけ。

おれからしたらすごい憧れだったよね

こいつらとバレーしたい。トスあげてみたいって。

だけどその夢は中学では叶わなかったんだ。

JOCって言う岐阜県選抜におれは落ちたの。

当時はすごい落ち込んでたんだけど、周りのみんなや当時の高校のベスト4の監督さんたち

県岐商岐南工、笠工、聖徳かな?

がお前の方が圧倒的にうまいからうちにこないかって高校見学で誘ってくれて、まあ引き入れるための出任せだったとしてもそれですごい救われたんだよね。(ちょいちょい自慢入れてくけど許してなw)

だからこそ高校では当時の星城みたいにこいつら全員と集まってバレーがしたい

全国で戦いたいって思ってたのよ

まあそれがおれが日大に入った理由。

最初に予定してたメンバーとはだいぶ違うけどね。

みんな家庭の事情やら金銭事情で理想のチームにはならなかった。けどそんな裏事情とは裏腹に日大はメンバーが集まったって噂がすぐ流れる。

そんなプレッシャーや中学と高校の差を思い知って

ましてや中学までろくに怒られてこなかったおれは本当に入る高校間違えたかなって思った笑笑

いつからかバレーが苦でしかなかった。

練習試合のたびにワンマン、本番で負けて、

親さんのところに行けずに階段でボーとしてる。

正直自分に甘っちょろい連中ばっかだったね

練習はサボることだけ考えてた。

次のオフはいつだろうなーって、

コーチはやく死んでくれんかなーって

南海トラフこねえかなーって

そんなことしか考えてなかったね

それでもなんとか新人戦優勝して、インターハイは準優勝だったけど、国体に選ばれたの。

そこからだね。高校バレーではじめて続けてよかったなって思えたのは。本当にいろんな人が期待を込めて多種多様なトスのあげ方、ましてやセッターでない人ですら自分の意見を押し付けてくる。

好意だけど迷惑だったよ本当に。そこで国体の監督の田中先生、今でもお世話になってるんだけどこの人に指導してもらえて、一回りも二回りも成長できた。この人に出会えたおかげでセッターとして輝けたんだよ。それに岐阜国体はJOCと違って監督のコネやなんやかんやがなくて、聖徳行ったやつ県岐に行ったやつ笠工にいったやつら、関商工に行ったやつが集まって始めておれの理想のチームが完成した。

あの2ヶ月間は本当に一生の思い出。

全日本の西田擁する三重県、全国でも名を轟かす愛工大名電擁する愛知県、東海はこの2チームだろうって誰もが思ってた。

でも奇跡としか言いようがない各高校から集まった岐阜国体のみんなと各ポジションに専門のコーチを配置してくれて夜更かししてスカウティングしてくれたスタッフの方々の歯車が嚙み合わさったことで三重県に勝って本国体に出場を決めたんだ。本当に県岐のみんなの勝負強さと頼もしさには圧倒された。抜群のリーダーシップとディフェンス力を誇る風音、ここぞの場面で必ず決める幹也、ミラクルなサービスエースとチームを盛り上げてくれる康生、この3人のおかげで三重に勝てた

本国体でも抜群のディフェンス力の風音ときょうご、全国でもトップレベルのクイックを打つこばと松尾、大エースの幹也、岐阜県1のパワーを持つ蓮、本当に役者揃いの岐阜県で俺はただピンポイントで帰ってきた玉をそいつらにあげるだけだった。

おれはそれしかしてないのに本国体で7位だよ

35年ぶりくらいの快挙だったらしい。

他チームの監督さんにも褒められた

周りのおかげでここまでもてはやされました。

俺は運が良かったのかも。笑笑

月バレにも載れたし( ̄▽ ̄)

愛媛じゃキャーキャーいわれたし( ̄▽ ̄)

俺がバレーやる理由はこれだと思ったよ。

チヤホヤされるの大好きなんだ俺。

そんなこんなで国体終わって燃え尽きちゃった俺は

春高で負けても涙が一粒も出なかったんだわ

最初からわかってたのかもしれない。

サボり続けてきたおれらが勝てないことなんか。

勝ちにこだわってた親さんやコーチや他のみんなには本当に申し訳ない。おれの目標は国体で達成されちゃってたんだ。本当に自分勝手は一生治んない

けどバレーだけは続けてたよ。その後も

おれは楽しくやりたかったんだ。

バレーを好きでい続けたかったから。

大学入ってからも後悔することだらけだった。

朝日は勝ちにこだわるバレーだったから。

またおれは選択を間違えたって。

でもそれでも本当に運の良いことに岐阜県の有望なセッターみんな県外出てたからあまりの俺がまた国体に選出されたんだよ。しかも次は青年だから、おれがずっと憧れてた2個上のジェフリーさんやしゅうまさん、よくトスのあげ方真似してた成原さんたちと同じ舞台に立ったわけ。

その時におれはそこまで上り詰めたんだなって初めて実感した。また後悔した後に続けて良かったと思った。今でも仲良くしてくれるし本当になんて運がいいんだろうとつくづく思う。

まあそんな運に恵まれ続けてきたおれはプレイヤーとしてより指導者になりたいって気持ちの方が強くなってきたの。

岐阜県はそもそも他県と比べてレベルが低いし

年々バレー自体のレベルも下がってきてる。

小中で第一線でバリバリやってきた子たちも

そこですでに燃え尽きちゃってる。なんて子も。

俺は高校バレーが華だと思ってる。

インハイや春高のあの観客席の応援の雰囲気や観客の数、男女が一緒の舞台になるベスト4位上の山県総合体育館、あの雰囲気をみんなにも味わって欲しい

そのためにおれが今まで続けてきたスキルをこの後の子たちにも引き継いでいきたい。

いろんな人に指摘されすぎて彷徨いながら必死にもがいてきたし、コーチは擬音ばっかりで何言うてるかわからんしそんな経験があるからこそおれのスキルをすべて与えて、ふとテレビをつけた時にやっていた春高バレーの決勝、両チームのセッターはおれが過去に教えた教え子たち!がネットを挟んで戦ってる!そんな日が訪れたら良いなって思ってる

今の高三の子たちはコロナでインハイなくなっちゃったけど、心配しないで。

おれがバレーの大会開いてあげる。

今までの練習の成果出させる場所を作るから。

クラウドファンディング使って資金も調達するし

なんとか大会開催できるように頑張ってみるから

この記事読んだ人やセッター教えて欲しい人はDMしてほしいし、拡散もして欲しいな

本当に過去1長い投稿だけど読んでくれてありがとう